太田清人の父(久満) おやじの思い出 (長野県、茅野市)


● 父親の姿                   オータ住環境」 代表 太田清人
      

             「僕のお父さん」


 仕事熱心 頑健 酒好き 旅行好き 役好き 祭り好き お人よし そんな父でした。 

父はとても怖く、口答え一つ出来ませんでした。小学校ころ、言われたことを聞かずに遊びに行ってしまった時のことです、帰ってきた僕は父に、丸太ん棒で目じりあたりを殴られたことが二度ほどありました。 

無理もないことです。親父が怒った理由は「ビニールハウスに、セロリーの苗木が植えられていました。その時は曇っていました。父から「晴れてきたら、温度が上がるから、ビニールハウスのビニールを、開けろ、と、言われ、留守番していたのです。いつまでたっても、晴れないので、ついつい、遊びにいて行ってしまったのです。

帰ってきたときは、日差しが、ハウスニに当たっていたのです。 ハウス内の温度は上がり「大切なセルリーの苗木が、しぼんでいたのです」。 子供心では、「危機管理の責任は」まだ理解できいませんでした。

そのときの傷跡が左右の目じりに二箇所に残っています。今では、「子供虐待」で訴えられるところです。

それからと言うもの、二度と怒られないように、父の言動には気をつけるようになりました。昔はこれも、躾の選択肢であったと思います。言って解らなければ、解らせるための少々の体罰もありだと思います。

勉強は本当にしなかったです。小学校のころから父母もあきらめていようでした。「好きなことをさせておけ」と言う感じでした。

父が大好きだったジバチ(すがり追い)や、きのこ採り、魚捕り、などを教えてもらいました。勉強嫌いの僕は、その後一人で夢中になり遊んだものです。

そんな僕の姿を、面白そうに見ていたように思います。おやじの変わりに一生懸命に遊んでいたようなものでした。

中学に入ってからは怒られた記憶はありません。農家の手伝いは言われたことはこなしていました。農機具(トラクター・田植え機・稲刈り機・・)にの乗っているのは楽しかったです。バイクやトラックにも乗っていました。もちろん免許証はありませんが、畑仕事で乗ったり、母を畑に送迎・・の範囲でした。

また、父に言われた仕事は、完璧に?こなしていました。あるとき、翌日予定がある時になど、どうしても都合がつかないときなどは、夜に稲刈り機の照明をつけて、夜通し稲刈りをしたことがありました。翌日、「父に、もう少しきれいに稲刈りしろ」といわれた記憶があります。なにせ、夜ですので、少々は雑になったのです。

中学、高校になると兄二人は東京に行ってしまったので、よけいに手伝いをあてにされていました。

卒業後のことを考えはじめたころ「家にいたらいつまでも田畑の手伝いをさせられてしまう。やだな〜」とおもうようになっていました。

それゆえに、親に相談もせず勝手に東京にある建築の専門学校「中央工学校」に願書を内緒でだしました。 その後父の知らぬ間に合格通知が家に届いてしまったのです。

父には当然のごとく怒られました、が、思いもしない「おまえも東京へ行って来い・・」と、気持ちよく送り出してくれました。

学校を卒業して東京で就職。その年(20歳)に「二級建築士」と「宅地建物取引主任者」の資格を取得することが出来ました。自身も驚くと同時に、父もとても喜んでくれていたのを思い出します。

しかしながら6年間の東京での生活は、健康管理に無頓着すぎました。徹夜の連続で、あるとき、4日間一睡もせず、仕事をしていた事もありました。その結果、体調不(自律神経失調症)になってしまいました。ノイローゼぎみとなってしまったのです。それからしばらは頑張ったのですが、元にはもどらなくて、やむなく故郷に戻ってくることになったのです。

家で体調回復に励んでいたころは、自身としても辛かった時期です。そのころは父母や兄に甘えていました。兄の車を乗り回し、ガソリンは父親の名義で・・・と。 父は見て見ぬふりをしていたと思います。そんな父でした。

酒と旅行が好きで、農繁期が終わる時期には、掛け持ちで旅行に行っているほどでした。旅行先では気前がよくて、同行者にはそのつど土産や、おつまみなどを買ってきては、振舞っていたようです。

外の飲み会なども多かった。午前様になっても、夏のセロリー出荷時期などは朝3時には起きて働いていました。親父は頑健で、疲れたとか、具合が悪い・・など聞いたことがありませんでした。二日酔い、かぜをひいた、などと聞いたことも、見たこともありません。

冬のある日、酔って帰ってきた父は、外で飼っていた我が家の愛犬ビーグルのチロと一緒に、朝まで外で寝ていたこともありました。

朝食前は(梅酒、早朝の畑仕事後)、昼食前(ビール、一ビン)、夕食前(ビールと酒)を楽しんでいました。それだけ体を使って汗をかいていました。お酒の飲みすぎが原因かわかりませんが、胃薬は常備薬となっていました。結果的にこの常備薬が命取りにつながったように、今ふりかえると思います。

残念ながら、楽しみにしていた末っ子35歳の僕の結婚一ヶ月前に、末期がん(すい臓)で亡くなってしまいました。最後の心配が無くなったのでしょうか、安心したかのように69歳の誕生日を迎えた翌日でした。 「おまえの事務所くらいは建ててやる」と言ってくれながら早々に逝ってしまったのです。

弱音を吐かない 愚痴も言わない 他人の噂話や悪口を言ったことが無い 役は何でも受けていた・・なによりお祭り好きだった。太く短い人生だったように思います。 

仕事熱心 頑健 気丈 人がいい 役好き 旅行好き 祭り好き、特におんばしら 酒好き の父でした。

今思うと父は僕にああしろ、こうしろ・・など言わなかったけど、間違いなく僕に父の背中を見せてくれていました。父が亡くなってから時が過ぎるほどに、強く温かく見守っていてくれた父であったことに気づかされます。本当に感謝しています。 この思いを我が子供たちにも伝えていきたいと思います。 

父のためにも自分の命を大切にしながら、我が子らにも恥ずかしくない僕の背中を見せながら、迎えが来る日まで頑張りたいと思っています。

もう一つ、薬を過信するのは、出来るだけ気をつけたほうが、いいのかな、と思います。

 




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